阿部竜司法律事務所 札幌弁護士会所属 阿部竜司法律事務所 札幌弁護士会所属

2017 03.28

同じ穴のむじなになってはいけない

皆さんは,他者から攻撃を受けた時に,

『やられたからにはやり返さなければ気が済まない!』

と思ったことはありますか?

おそらく,ほとんどの方は過去何度か思われたことがあると思います。

確かに,他者から理不尽に攻撃を受けたら,怒りを感じますし,「なんで自分だけがこんな目に遭わなければならないのか?」という思いにも駆られてしまうのが人の性(さが)ですから,攻撃を受けたら仕返しをしたいという感覚は無理もないところではあります。

しかし,実際に仕返しをしたとして,それはあなたの幸せの実現に効果的な行動といえるでしょうか

理不尽な攻撃を受けた時,ほとんどの方は,その相手に対して,

「なんて常識外れな人なんだ!」

とか,

「人でなしだ!」

とか,

「思いやりのかけらもない!」

というような思いを抱きますよね。


では,そのような,常識外れで人でなしで思いやりのかけらもない人に対して,仕返しという形で相手にダメージを負わせる報復行為を行うことは,どういう意味を持つでしょうか

『自分が受けた痛みを相手に味わわせることができてスッキリ!!気分爽快!!幸せ!!』

となるのだから,合法的な手段による仕返しは幸せの実現に効果的なのだ,という考えの方もいらっしゃるかもしれません。


しかし,私の考えは異なります。

理不尽な攻撃を受けた相手に対して報復行為を行い,自分が受けた痛みと同等以上のダメージを与えようとする行為は,結局のところ,その相手と同じ土俵に下りるということを意味するからです

言葉を選ばずに言い換えれば,他者に対して理不尽な攻撃をするというような,端的にいえば幼児レベルの行動をとっている相手に対して,同様に幼児レベルの対応をしようとしているということです。


このような視点に対しては,

「でも,仕返しをする側は,『理不尽な攻撃を受けた』という(相手に起因する)きっかけがある以上,仮に同等以上の痛みを与える報復行為だったとしても,理不尽な攻撃をしてきた相手と同じレベルということはないんじゃないの!?」

と思う方も少なくないかもしれません。

確かに,攻撃を行う動機については,第三者から見てある程度同情できるかそうでないかという違いはあるかもしれません。

しかし,重要なのは,行動の動機について同情の余地があるかどうかという観点ではありません

(攻撃を受けた人が)今後幸せな人生を生きていくという人生の最大の目的を達成する上で,相手と同じ土俵で相手を痛めつける行為を行うことが本当に効果的かどうかという観点が重要なのです。


確かに,いわれなく泥沼に落とされた時には,自分を落とした相手も同じように泥沼に引きずり込みたくなってしまうのは無理もないことです。

人間ですから。

でも,そこで一時停止をかけて,自分の幸せのために本当に効果的な行動を考えてほしいのです。

報復として相手を泥沼に引きずり込んだら,その一瞬はスッキリするかもしれません。

しかし,後に残るのはどんな状態でしょうか。

泥沼に落ちた人が2人になって,そのままおしまいですよね。

場合によっては,泥沼に引きずり落とされた相手がさらなる報復行為をしかけてきて,泥沼の中で第2ラウンドがスタートしてしまうかもしれません。

いかがでしょうか。

泥沼の中でさらにいがみ合い状態を続けることが幸せの実現に効果的だと思いますか?


もちろん,だからと言って,相手から理不尽な攻撃を受けてもじっと耐えて我慢するべきだ,と言いたいのではありません

問題の解決方法として,相手と同じように痛みを与えるような報復行為という手段を用いるのではなく,もっと幸せの実現に効果的な手段を考えるべきではないかと言いたいのです。

聖書の一説に,「右の頬を殴られたら,左の頬を差し出しなさい」という言葉があるのをご存知でしょうか。

この言葉については,『暴力行為を受けても仕返しをせず,相手を許しなさい。』というような教えであるという理解をされている方が多いのではないかと思います。

しかし,実はもっと深い解釈が存在することは,あまり知られていません。

イエスの時代は,卑しい身分の奴隷を手のひらで殴ると手が汚れると考えられていたため,奴隷を使っていた主人が手の甲(裏拳)で奴隷を殴るという習慣があったそうです。

そのため,右頬を殴られた奴隷が左頬を差し出すという行為は,「手の甲ではなく手の平で私を殴るがいい。それによって,私とあなたは,主人と奴隷という関係から,対等な関係に変わるのだ。」ということを意味します

身分階級制度が当たり前であった当時において,主人が奴隷と対等な立場になるというのは大変な屈辱だったそうです。

そのため,右頬を殴られた奴隷が左頬を差し出すという行為は,相手が用いた暴力とは異なる平和的な方法により,理不尽な攻撃や理不尽な奴隷制度に対して抗議するということを意味すると考えられるわけです。


これはあくまで聖書の一解釈であり,実際のところイエスがどのように考えていたかを知ることはできません。

しかし,私はこの解釈にとても共感を持っています。

ガンジーの「非暴力不服従」の精神とも共通する考え方ではないかと思います。


多くの人は,他者から攻撃を受けた時に,「戦うか,逃げるか」の二者択一思考に陥ってしまうという習性を持っています

しかし,「7つの習慣」の著者スティーブン・R・コヴィー博士は,「戦うか,逃げるか」以外の選択肢,つまり「第3の案」が必ずあるはずであり,それを見つけようとすることこそが,幸せの実現に向けた効果的な習慣であると説いています(スティーブン・R・コヴィー著「第3の案」より)。


私は弁護士として,他者からの攻撃を受けている個人の方や,中小企業経営者の方々のご相談を日々受けています。

その時私は,必ず,(クライアントにとって最も幸せの実現に効果的である)win-winの実現のため,「戦うか,逃げるか」以外の第3の案を模索するようにしています。

もちろん,結果として,時には裁判等の法的手段を選択することもあります。

しかし,それは,任意の交渉では対応してきてくれない相手との話合いの場を設定する意味合いがあったり,あるいは,重要な事実の存否について真っ向から意見が異なっており,その事実の有無について裁判で認定してもらう以外に妥当な解決を実現することが難しい場合に限っています。


攻撃を受けた相手と同じ土俵に立って仕返しをすることは,まさに同じ穴のむじなになってしまう行為であり,自分の人格を貶める行為といっても過言ではありません。


ぜひ,「戦うか,逃げるか」以外の第3の案を考える習慣を身に着けてくださいね!