2017 03.01
皆さんは,他者に対して優しい言葉を掛けたり,気を使った行動をしたのに,それに対して感謝の意を示してもらえなかったり,好意的な感情を示してもらえなかった時に,
『せっかく優しくしてあげたのに,お礼の1つも言えないなんて,なんだよ!』
と,苛立ちを感じたというようなご経験をされたことがあるでしょうか。
確かに,人に気を使ったり,優しさを行動で表したのに,それに対して芳しい反応を示してもらえなかったら,不快に感じてしまうことも無理からぬところはあるでしょう。
でも,そこで考えてみてほしいのです。
あなたが他者に対して優しくしたのは,誰のためですか?
『そんなの,その相手に決まってるじゃないか!』
そう思われた方も少なくないのではないでしょうか。
そのような方は,他者に対して優しくすることはやめた方がいいと思います。
なぜなら,冒頭の事例のように,相手からこちらが期待するような反応を示してもらえなかったら,かえって不快な気持ちになってしまうのがオチだからです。
それでは,誰のために,他者に対して優しくあるべきなのでしょうか?
シンプルです。
自分のためです。
より詳細に言えば,自分のとった行動で相手が喜んでくれたり,快適な気持ちになってくれたら自分が幸せだから,他者に対して優しくするんです。
あるいは,他者に対して優しくある人物こそが自分の目指す「理想の自分」であるからこそ,なりたい自分になるために,他者に対して優しくするのです。
ところが,そうではなく,相手に感謝されたら気分がいいからとか,相手の世話を焼くことで自尊心が満たされるからというような理由で他者に対して優しくする人がいます。
そういう方は,冒頭の事例のように,相手が期待通りに感謝の意を示してくれなかったり,自分に頼ってくれなかったら,
「自分がこれだけ優しいことをしてあげたのに,その反応はなんだよ!」
というように,そのような反応をした相手に対して悪感情を抱きます。
これは,極端にいえば,優しさというエサで他人を自分の期待通りに動かそうとしていることにほかなりません。
だから,期待通りに動いてくれないと腹を立てるわけです。
それって,言葉を選ばずに言えば,優しさの押し売りですよね。
「ほら,こんなにあなたにやさしくしてあげたんだから,感謝しなさい」
と,感謝という代価を求めて優しさを強引に売っているのと同じです。
真の優しさとは,相手が感謝という代価を払ってくれるかどうかなど一切関係なく,ただただ,相手が喜んでくれること,相手が笑顔になってくれることが自分自身の幸せであるから,喜んでもらいたいという一心で相手を思いやり,それを行動に表すことをいいます。
例えば,母親は,子供に「ありがとう」と言われたいから,子供のお世話をしているのでしょうか。
子供がありがとうと言わなかったら,そのことについて子供を非難し,子供の世話をする気を失くすでしょうか。
そんなことありませんよね。
母親は,子供が幸せになることが自分自身の幸せであるからこそ,子供の成長に貢献したいと願い,子供のお世話をしているはずです。
もちろん,子供が母親のお世話に対して感謝の意を示してくれたら,喜ばない親はいません。
それは何らおかしなことではありません。
でもそれは,元々子供から感謝されたくてお世話をしていたから喜ぶのではありません。
自分の子供が,他者から厚意を受けたことに対してきちんと感謝の意を示すことができているという,その人格的成長を喜んでいるのです。
これが真の優しさであり,「愛」と言い換えることもできます。
愛は,他者に対して求めるものではありません。
愛は,自分にとって大切な人に幸せになってほしいと願う心そのものであり,「愛する」とは,具体的な行動によって相手の幸せに貢献しようとすることをいいます。
だから,「なんでもっと私を愛してくれないの!?」と相手に求める人は,その人自身が相手を愛してはいないのですね。
相手に「自分を愛すること」を求める行為は,相手の幸せに貢献しようとする行為でないことは明らかですから。
私は,自分が他者に喜んでもらいたいと思ってしたことに対して,たとえ他者から感謝の意を示してもらえなかったとしても,そのことでその相手に対して悪感情を抱くことはありません。
(もちろん,人間ですから,予想外な反応をされたら一瞬『うっっ』とはなりますけどね(苦笑))
なぜなら,感謝の言葉を発したり,喜んだりするかどかは,結局のところ相手が決めること(=相手の課題)なのであって,私が決めること(=私の課題)ではないからです。
私自身の課題は,『常に他者に対して思いやりを持ち,他者が喜んでくれるような行動を率先してとれる自分で在る』というものであり,その課題は,実際に行動している時点で既に完結しているのです。
だから,仮に相手が喜んでくれなかったとしても,まずは勇気をもって行動できたことを成功と捉えます。
そして,どうしたらもっと喜んでもらえるだろうか,という新たな課題を自分に課し,その課題のクリアに向けた方策に集中します。
これを積み重ねていくことで,様々な人に対して喜んでもらうための知恵や技術が身についていき,自分が目指す方向へ人格的成長を遂げていけるわけです。
皆さん,他者に対して何かしようと思う時は,ぜひ,その行為をすることが自分自身の目指す「理想の自分」に近づける行為かどうかを判断基準にしてください。
「理想の自分」に近づける行為なのであれば,他者が感謝するかどうかなんてどうでもいいじゃないですか。
その行動によって,一歩理想の自分へと近づくという成果を得ているのですから。
誰のためでもなく,自分自身のために,他者に優しくある。
これからは,ぜひそんな風に考えてみてください。
間違いなく,他人の言動に心が揺さぶられることが減って,人生が楽しくなりますよ!!
『せっかく優しくしてあげたのに,お礼の1つも言えないなんて,なんだよ!』
と,苛立ちを感じたというようなご経験をされたことがあるでしょうか。
確かに,人に気を使ったり,優しさを行動で表したのに,それに対して芳しい反応を示してもらえなかったら,不快に感じてしまうことも無理からぬところはあるでしょう。
でも,そこで考えてみてほしいのです。
あなたが他者に対して優しくしたのは,誰のためですか?
『そんなの,その相手に決まってるじゃないか!』
そう思われた方も少なくないのではないでしょうか。
そのような方は,他者に対して優しくすることはやめた方がいいと思います。
なぜなら,冒頭の事例のように,相手からこちらが期待するような反応を示してもらえなかったら,かえって不快な気持ちになってしまうのがオチだからです。
それでは,誰のために,他者に対して優しくあるべきなのでしょうか?
シンプルです。
自分のためです。
より詳細に言えば,自分のとった行動で相手が喜んでくれたり,快適な気持ちになってくれたら自分が幸せだから,他者に対して優しくするんです。
あるいは,他者に対して優しくある人物こそが自分の目指す「理想の自分」であるからこそ,なりたい自分になるために,他者に対して優しくするのです。
ところが,そうではなく,相手に感謝されたら気分がいいからとか,相手の世話を焼くことで自尊心が満たされるからというような理由で他者に対して優しくする人がいます。
そういう方は,冒頭の事例のように,相手が期待通りに感謝の意を示してくれなかったり,自分に頼ってくれなかったら,
「自分がこれだけ優しいことをしてあげたのに,その反応はなんだよ!」
というように,そのような反応をした相手に対して悪感情を抱きます。
これは,極端にいえば,優しさというエサで他人を自分の期待通りに動かそうとしていることにほかなりません。
だから,期待通りに動いてくれないと腹を立てるわけです。
それって,言葉を選ばずに言えば,優しさの押し売りですよね。
「ほら,こんなにあなたにやさしくしてあげたんだから,感謝しなさい」
と,感謝という代価を求めて優しさを強引に売っているのと同じです。
真の優しさとは,相手が感謝という代価を払ってくれるかどうかなど一切関係なく,ただただ,相手が喜んでくれること,相手が笑顔になってくれることが自分自身の幸せであるから,喜んでもらいたいという一心で相手を思いやり,それを行動に表すことをいいます。
例えば,母親は,子供に「ありがとう」と言われたいから,子供のお世話をしているのでしょうか。
子供がありがとうと言わなかったら,そのことについて子供を非難し,子供の世話をする気を失くすでしょうか。
そんなことありませんよね。
母親は,子供が幸せになることが自分自身の幸せであるからこそ,子供の成長に貢献したいと願い,子供のお世話をしているはずです。
もちろん,子供が母親のお世話に対して感謝の意を示してくれたら,喜ばない親はいません。
それは何らおかしなことではありません。
でもそれは,元々子供から感謝されたくてお世話をしていたから喜ぶのではありません。
自分の子供が,他者から厚意を受けたことに対してきちんと感謝の意を示すことができているという,その人格的成長を喜んでいるのです。
これが真の優しさであり,「愛」と言い換えることもできます。
愛は,他者に対して求めるものではありません。
愛は,自分にとって大切な人に幸せになってほしいと願う心そのものであり,「愛する」とは,具体的な行動によって相手の幸せに貢献しようとすることをいいます。
だから,「なんでもっと私を愛してくれないの!?」と相手に求める人は,その人自身が相手を愛してはいないのですね。
相手に「自分を愛すること」を求める行為は,相手の幸せに貢献しようとする行為でないことは明らかですから。
私は,自分が他者に喜んでもらいたいと思ってしたことに対して,たとえ他者から感謝の意を示してもらえなかったとしても,そのことでその相手に対して悪感情を抱くことはありません。
(もちろん,人間ですから,予想外な反応をされたら一瞬『うっっ』とはなりますけどね(苦笑))
なぜなら,感謝の言葉を発したり,喜んだりするかどかは,結局のところ相手が決めること(=相手の課題)なのであって,私が決めること(=私の課題)ではないからです。
私自身の課題は,『常に他者に対して思いやりを持ち,他者が喜んでくれるような行動を率先してとれる自分で在る』というものであり,その課題は,実際に行動している時点で既に完結しているのです。
だから,仮に相手が喜んでくれなかったとしても,まずは勇気をもって行動できたことを成功と捉えます。
そして,どうしたらもっと喜んでもらえるだろうか,という新たな課題を自分に課し,その課題のクリアに向けた方策に集中します。
これを積み重ねていくことで,様々な人に対して喜んでもらうための知恵や技術が身についていき,自分が目指す方向へ人格的成長を遂げていけるわけです。
皆さん,他者に対して何かしようと思う時は,ぜひ,その行為をすることが自分自身の目指す「理想の自分」に近づける行為かどうかを判断基準にしてください。
「理想の自分」に近づける行為なのであれば,他者が感謝するかどうかなんてどうでもいいじゃないですか。
その行動によって,一歩理想の自分へと近づくという成果を得ているのですから。
誰のためでもなく,自分自身のために,他者に優しくある。
これからは,ぜひそんな風に考えてみてください。
間違いなく,他人の言動に心が揺さぶられることが減って,人生が楽しくなりますよ!!