2017 10.27
前回の投稿に引き続き,10月7日の岸見一郎先生(※ベストセラー本「嫌われる勇気」の著者)の講演会で学んだことについてご紹介したいと思います。
岸見先生のお話は,大要以下の3つに分かれておりました。
① 他者の目を気にしないこと
② ありのままの自分に価値を置くこと
③ 今この瞬間を生きること
このうち,前回の投稿では,「① 他者の目を気にしないこと」についてお話をしました。
続く本稿では,「② ありのままの自分に価値を置くこと」についてお話ししていきたいと思います。
皆さんは「存在価値」ということについて考えたことや,見聞きしたことはあるでしょうか。
おそらく,ないという人の方が多いのではないかと思います。
アドラー心理学では,人はその存在自体に価値があるという考え方が提唱されています。
お金を稼ぐとか,他者を助けるとか,そういった「行為」に着目するのではなく,今ここに「存在すること」そのものに価値があると考えるわけです。
この考え方について,聞いたそばからすぐにピンと来る方はなかなかいないと思います。
多くの人は,これまでの人生の大半において,一定の行為について,良くも悪くも他者(※親や兄弟といった家族も含む)から評価され続けて大人になっていきます。
テストの点数や成績評価,進学先のレベル,部活動その他課外活動に関する成果の有無等が代表的ですね。
そして,大人になってからも,就職面接で評価され,会社内で評価され,専業主婦になったとしても子育てについて周りからあれこれと評価されたり,他の専業主婦の人と比べられたり・・・等々,とかく周りから「良い」とか「悪い」とか評価されながら日々を生きています。
そんな日常生活を送っていると,自然と,他者から好評価を受ける行為をしている人が「価値のある人」で,マイナスな評価を受ける行為をしている人は「価値のない人」である,というような思考パターンが恐ろしいまでに脳内に刷り込まれていきます。
そうして,他者から好評価を受けることよりもマイナスな評価を受けることの方が多い(と自分で感じている)人の場合,
「自分はダメな人間だ。」
「私なんて・・・」
「俺なんかに価値はない。」
などというように,自己否定へと走ってしまうことになります。
また,好評価を受けることが多い人の場合も,「他者から好評価を受けられるかどうか」ということが自分の行動基準になってしまっており,常に『周りからどう思われているのか』ということを気にして不安を感じながら生きているということが少なくないと思われます。
そうだとすると,「行為」に対する周りからの評価で人の価値を測ろうとすると,悪い評価の場合はもちろん,例え良い評価を受けていたとしても,心の安定は得られない可能性が高くなりそうですね。
前回の投稿で取り上げた「他者の目を気にしないこと」の重要性ともつながるお話ではないかと思います。
では,どうしたらそんな不安定な状態を脱して,心健やかに幸せな人生を歩めるでしょうか。
そのキーになるのが,「存在そのものに価値を置く」という考え方です。
「一寸の虫にも五分の魂」と言われるように,世の中のあらゆる生き物には,存在としての意義や価値があります。
(※ちなみに,リアルな話ですが,昆虫は地球にとって有害なものを食べる性質をもっており,地球の無毒化に貢献しているそうです。)
そうであるならば,“いわんや,高度の知能を持つ私たち人間をや”というわけですね。
と,こういう考え方をお話しすると,
『いやいや,本能で生きている動物や昆虫と人間を同一視はできない。人間は成長し,思考しながら行為を選択できる生き物である以上,ただ存在していることだけに価値を置くことなどできない』
なんて考える人もいるかもしれません。
では,考えてみましょう。
例えば,赤ちゃんが生まれた時に,ご両親の下に無事誕生したことそのものに価値はないでしょうか?
誰しも,赤ちゃんが具体的に何かしたとかそういうことではなく,今目の前に生まれてきてくれて,生きていることそのものに感謝し,価値を感じるのではないでしょうか?
大人になっても同じです。
例えば,成人して独り立ちし,特に経済的支援や生活上の支援を受けなくなったからといって,ご両親の存在に価値はない等と思う子供はいないでしょう。
(仮にご両親と不仲であり,これまでまともな養育を受けてこなかったというような事情があったとしても,それはそのような扱いを受けたという「行為」に対して認められない部分があるだけであって,「存在そのもの」に価値がないということにはなりません。)
仮に,これまで人に迷惑をかけるようなことばかり積み重ねてきた人であっても,存在そのものに価値はあります。
なぜか?
それは,これからいくらでも良くなれる可能性,他者の幸せに貢献することができる可能性を必ず持っているからです。
アドラーは,『人は,死ぬ1日~2日前くらいまでならいつでも変われる』と言います。
このような可能性を全ての人が秘めている以上,人の存在そのものに価値があることは疑いようがありません。
だったら,ありのままの自分に価値を置いてもいいじゃないですか。
自分という存在そのものに価値があるんですから。
お金を稼いでいるとか稼いでいないとか,人の役に立っているとかいないとか,社会に貢献しているとかしていないとか,そういう「行為」に注目する前に,まず「存在そのもの」,「ありのままの自分」を認めましょう。
そして,「ありのままの自分」を認められたら,今度は,周りの人についても,「ありのままの存在価値」を認めましょう。
世界中の人々が,お互いに「ありのままの存在価値」を認め合うことができたなら,この世から争いごとはなくなります。
ぜひ皆さんも,「ありのままの自分」,そして「ありのままの他者」の存在価値を認めるという習慣を意識してみてくださいね!
岸見先生のお話は,大要以下の3つに分かれておりました。
① 他者の目を気にしないこと
② ありのままの自分に価値を置くこと
③ 今この瞬間を生きること
このうち,前回の投稿では,「① 他者の目を気にしないこと」についてお話をしました。
続く本稿では,「② ありのままの自分に価値を置くこと」についてお話ししていきたいと思います。
皆さんは「存在価値」ということについて考えたことや,見聞きしたことはあるでしょうか。
おそらく,ないという人の方が多いのではないかと思います。
アドラー心理学では,人はその存在自体に価値があるという考え方が提唱されています。
お金を稼ぐとか,他者を助けるとか,そういった「行為」に着目するのではなく,今ここに「存在すること」そのものに価値があると考えるわけです。
この考え方について,聞いたそばからすぐにピンと来る方はなかなかいないと思います。
多くの人は,これまでの人生の大半において,一定の行為について,良くも悪くも他者(※親や兄弟といった家族も含む)から評価され続けて大人になっていきます。
テストの点数や成績評価,進学先のレベル,部活動その他課外活動に関する成果の有無等が代表的ですね。
そして,大人になってからも,就職面接で評価され,会社内で評価され,専業主婦になったとしても子育てについて周りからあれこれと評価されたり,他の専業主婦の人と比べられたり・・・等々,とかく周りから「良い」とか「悪い」とか評価されながら日々を生きています。
そんな日常生活を送っていると,自然と,他者から好評価を受ける行為をしている人が「価値のある人」で,マイナスな評価を受ける行為をしている人は「価値のない人」である,というような思考パターンが恐ろしいまでに脳内に刷り込まれていきます。
そうして,他者から好評価を受けることよりもマイナスな評価を受けることの方が多い(と自分で感じている)人の場合,
「自分はダメな人間だ。」
「私なんて・・・」
「俺なんかに価値はない。」
などというように,自己否定へと走ってしまうことになります。
また,好評価を受けることが多い人の場合も,「他者から好評価を受けられるかどうか」ということが自分の行動基準になってしまっており,常に『周りからどう思われているのか』ということを気にして不安を感じながら生きているということが少なくないと思われます。
そうだとすると,「行為」に対する周りからの評価で人の価値を測ろうとすると,悪い評価の場合はもちろん,例え良い評価を受けていたとしても,心の安定は得られない可能性が高くなりそうですね。
前回の投稿で取り上げた「他者の目を気にしないこと」の重要性ともつながるお話ではないかと思います。
では,どうしたらそんな不安定な状態を脱して,心健やかに幸せな人生を歩めるでしょうか。
そのキーになるのが,「存在そのものに価値を置く」という考え方です。
「一寸の虫にも五分の魂」と言われるように,世の中のあらゆる生き物には,存在としての意義や価値があります。
(※ちなみに,リアルな話ですが,昆虫は地球にとって有害なものを食べる性質をもっており,地球の無毒化に貢献しているそうです。)
そうであるならば,“いわんや,高度の知能を持つ私たち人間をや”というわけですね。
と,こういう考え方をお話しすると,
『いやいや,本能で生きている動物や昆虫と人間を同一視はできない。人間は成長し,思考しながら行為を選択できる生き物である以上,ただ存在していることだけに価値を置くことなどできない』
なんて考える人もいるかもしれません。
では,考えてみましょう。
例えば,赤ちゃんが生まれた時に,ご両親の下に無事誕生したことそのものに価値はないでしょうか?
誰しも,赤ちゃんが具体的に何かしたとかそういうことではなく,今目の前に生まれてきてくれて,生きていることそのものに感謝し,価値を感じるのではないでしょうか?
大人になっても同じです。
例えば,成人して独り立ちし,特に経済的支援や生活上の支援を受けなくなったからといって,ご両親の存在に価値はない等と思う子供はいないでしょう。
(仮にご両親と不仲であり,これまでまともな養育を受けてこなかったというような事情があったとしても,それはそのような扱いを受けたという「行為」に対して認められない部分があるだけであって,「存在そのもの」に価値がないということにはなりません。)
仮に,これまで人に迷惑をかけるようなことばかり積み重ねてきた人であっても,存在そのものに価値はあります。
なぜか?
それは,これからいくらでも良くなれる可能性,他者の幸せに貢献することができる可能性を必ず持っているからです。
アドラーは,『人は,死ぬ1日~2日前くらいまでならいつでも変われる』と言います。
このような可能性を全ての人が秘めている以上,人の存在そのものに価値があることは疑いようがありません。
だったら,ありのままの自分に価値を置いてもいいじゃないですか。
自分という存在そのものに価値があるんですから。
お金を稼いでいるとか稼いでいないとか,人の役に立っているとかいないとか,社会に貢献しているとかしていないとか,そういう「行為」に注目する前に,まず「存在そのもの」,「ありのままの自分」を認めましょう。
そして,「ありのままの自分」を認められたら,今度は,周りの人についても,「ありのままの存在価値」を認めましょう。
世界中の人々が,お互いに「ありのままの存在価値」を認め合うことができたなら,この世から争いごとはなくなります。
ぜひ皆さんも,「ありのままの自分」,そして「ありのままの他者」の存在価値を認めるという習慣を意識してみてくださいね!