2017 06.23
皆さんは,何か行動するときに用いる基準として,「善いか悪いか」という善悪の基準を使うことはあるでしょうか?
おそらく,ないという方はいらっしゃらないのではないかと思います。
誰だって,何かをするときに,それが「善いか悪いか」というのは重要な判断要素になりますよね。
当たり前のことです。
特に意識しなくても,誰だって,1つ1つの物事について,「善いか悪いか」ということは当たり前のように考えますよね。
でも,これって実はとっても危険なことじゃないでしょうか。
だって,皆さん,何をもって善いとか悪いということを判断していますか?
法令ですか?
確かに,法令に違反していなければ「善い」,違反していれば「悪い」というのはとてもわかりやすい基準ですね。
でも,法令は結局のところ人間が作るものですから,完璧完全なものなどありえません。
そうであるならば,仮に変な法令が何らかの間違いでできてしまった場合でも,やはりこれに従うことは「善い」で,従わないことは「悪い」のでしょうか。
そんなことはなさそうですよね。
それに,そもそも「善いか悪いか」の基準が法令だけ,という人はまずいないですよね。
皆さん,それぞれ自分なりの善悪の基準があって,物事の「善いか悪いか」を判断しているはずです。
言い換えれば,人は皆,自分のパラダイム(ものの見方・考え方)や価値観に基づいて,「善いか悪いか」を判断していますよね。
法令に違反しているか否かという点も,結局のところはそのパラダイムや価値観の中で見極められる問題といえるでしょう。
さて,この「善いか悪いか」を決めるパラダイムや価値観というものは,誰しも同じでしょうか?
そんなことはありませんよね。
むしろ,誰1人として全く同じ人はいませんよね。
この世に全く同じ人は一人もいないわけですから,当然,その人自身のオリジナルであるパラダイムや価値観も,人によって全然違います。
そうだとしたら,自分1人のみに関わることであればともかく,他者にも関わるような事柄について,自分なりの「善いか悪いか」で行動を選択することは,リスクがあることになります。
自分にとって「善い」と思うことでも,他者にとって「善い」こととは限らないからです。
これは,例えどんなにその他者に対して思いやりをもって考えたとしてもそうです。
自分はその他者ではない以上,他者にとっての「善いか悪いか」は(ある程度想像はできるとしても)確定し得ないものですよね。
では,どうしたらよいのでしょうか。
「善いか悪いか」以外のどんな視点を判断基準にすればよいのか,という問題ですね。
私がおすすめしたいのは,「(求める成果に対して)効果的かどうか」という基準です。
例えば,商売をやっていて,お客様からやや理不尽なクレームを受けたとします。
特にこちら側に目立った落ち度はないのですが,不満を示されているような場合ですね。
このような場合に,こちらの主張内容が「善いか悪いか」の基準を当てはめて
「こちらは目立った落ち度が無いのだから(こちらの主張内容は正当であり「善」なのだから),お客様の言っていることはおかしいですよ。」
というような対応をしたらどうなるでしょうか。
おそらく,火に油を注ぐように,お客様の怒りはさらに増大し,クレームはエスカレートしていく可能性が高いですよね。
結果として,問題が解決するどころか,悪化するという状況になるわけです。
では,「(クレームという問題を解決するために)効果的かどうか」という基準を当てはめたらどのような判断になるでしょうか。
お客様は不満がたまっている状況にある以上,ある程度それを吐き出さないと,心が落ち着かず,こちらのお話を聞く耳を持ってくれる状態にはならないと考えられますね。
だからこそ,「お客様に納得していただき,矛を収めてもらう」という目的に対しては,
『まずは向こうが落ち着くまで,集中してお話を聴く』
という選択肢が効果的であると考えられるわけです。
あくまで,最終的に自分たちが辿り着きたいゴールへと近づく効果が高いか低いかで考えるわけですね。
この判断基準は,個人の人生についても,企業の経営判断についても,およそどんなことに対しても普遍的に通用します。
なぜなら,効果的かどうかということについては一定の原則(=原因と結果の法則)が必ず存在するからです。
そして,そのような原則というのは,偉大な先人たちが書籍や論文によって私たちに明らかにしてくれています。
私がよく本ブログで引用するスティーブン・R・コヴィーの「7つの習慣」,デール・カーネギーの「人を動かす」,あるいはピーター・F・ドラッカーの「マネジメント」等は,まさにその代表格なわけですね。
個人の人生に関する自己啓発書や,企業の経営を助けるビジネス書というものは,そのような効果性に関する原則を学び,自分の行動基準として落とし込むために存在するわけです。
決して,物知りになってなんとなく優越感に浸るために存在するわけではありません(笑)。
人はつい,自分の価値観に照らして「善いか悪いか」で行動を選択してしまいます。
ですが,それはまさに幸せな人生を歩んでいくためには「効果的ではない」方法なのです。
私は,「効果的か否か」という判断基準を用いるようになってから,家族,友人,同僚,先輩,クライアント等,誰と話しているかに関わらず,何か人の行動について「善いか悪いか」というような話題になった時には,「効果的である」,「効果的でない」という言葉を使うようにしています。
「その人のしていることはあまり効果的ではないね。」
とか,
「めちゃめちゃ効果的だね~」
などという感じです。
普段からそういう何気ない会話で使う言葉から変えていくことで,習慣として身に着いてきますよね!
「善いか悪いか」ではなく,「効果的かどうか」
ぜひ,考えてみてください(^^)
おそらく,ないという方はいらっしゃらないのではないかと思います。
誰だって,何かをするときに,それが「善いか悪いか」というのは重要な判断要素になりますよね。
当たり前のことです。
特に意識しなくても,誰だって,1つ1つの物事について,「善いか悪いか」ということは当たり前のように考えますよね。
でも,これって実はとっても危険なことじゃないでしょうか。
だって,皆さん,何をもって善いとか悪いということを判断していますか?
法令ですか?
確かに,法令に違反していなければ「善い」,違反していれば「悪い」というのはとてもわかりやすい基準ですね。
でも,法令は結局のところ人間が作るものですから,完璧完全なものなどありえません。
そうであるならば,仮に変な法令が何らかの間違いでできてしまった場合でも,やはりこれに従うことは「善い」で,従わないことは「悪い」のでしょうか。
そんなことはなさそうですよね。
それに,そもそも「善いか悪いか」の基準が法令だけ,という人はまずいないですよね。
皆さん,それぞれ自分なりの善悪の基準があって,物事の「善いか悪いか」を判断しているはずです。
言い換えれば,人は皆,自分のパラダイム(ものの見方・考え方)や価値観に基づいて,「善いか悪いか」を判断していますよね。
法令に違反しているか否かという点も,結局のところはそのパラダイムや価値観の中で見極められる問題といえるでしょう。
さて,この「善いか悪いか」を決めるパラダイムや価値観というものは,誰しも同じでしょうか?
そんなことはありませんよね。
むしろ,誰1人として全く同じ人はいませんよね。
この世に全く同じ人は一人もいないわけですから,当然,その人自身のオリジナルであるパラダイムや価値観も,人によって全然違います。
そうだとしたら,自分1人のみに関わることであればともかく,他者にも関わるような事柄について,自分なりの「善いか悪いか」で行動を選択することは,リスクがあることになります。
自分にとって「善い」と思うことでも,他者にとって「善い」こととは限らないからです。
これは,例えどんなにその他者に対して思いやりをもって考えたとしてもそうです。
自分はその他者ではない以上,他者にとっての「善いか悪いか」は(ある程度想像はできるとしても)確定し得ないものですよね。
では,どうしたらよいのでしょうか。
「善いか悪いか」以外のどんな視点を判断基準にすればよいのか,という問題ですね。
私がおすすめしたいのは,「(求める成果に対して)効果的かどうか」という基準です。
例えば,商売をやっていて,お客様からやや理不尽なクレームを受けたとします。
特にこちら側に目立った落ち度はないのですが,不満を示されているような場合ですね。
このような場合に,こちらの主張内容が「善いか悪いか」の基準を当てはめて
「こちらは目立った落ち度が無いのだから(こちらの主張内容は正当であり「善」なのだから),お客様の言っていることはおかしいですよ。」
というような対応をしたらどうなるでしょうか。
おそらく,火に油を注ぐように,お客様の怒りはさらに増大し,クレームはエスカレートしていく可能性が高いですよね。
結果として,問題が解決するどころか,悪化するという状況になるわけです。
では,「(クレームという問題を解決するために)効果的かどうか」という基準を当てはめたらどのような判断になるでしょうか。
お客様は不満がたまっている状況にある以上,ある程度それを吐き出さないと,心が落ち着かず,こちらのお話を聞く耳を持ってくれる状態にはならないと考えられますね。
だからこそ,「お客様に納得していただき,矛を収めてもらう」という目的に対しては,
『まずは向こうが落ち着くまで,集中してお話を聴く』
という選択肢が効果的であると考えられるわけです。
あくまで,最終的に自分たちが辿り着きたいゴールへと近づく効果が高いか低いかで考えるわけですね。
この判断基準は,個人の人生についても,企業の経営判断についても,およそどんなことに対しても普遍的に通用します。
なぜなら,効果的かどうかということについては一定の原則(=原因と結果の法則)が必ず存在するからです。
そして,そのような原則というのは,偉大な先人たちが書籍や論文によって私たちに明らかにしてくれています。
私がよく本ブログで引用するスティーブン・R・コヴィーの「7つの習慣」,デール・カーネギーの「人を動かす」,あるいはピーター・F・ドラッカーの「マネジメント」等は,まさにその代表格なわけですね。
個人の人生に関する自己啓発書や,企業の経営を助けるビジネス書というものは,そのような効果性に関する原則を学び,自分の行動基準として落とし込むために存在するわけです。
決して,物知りになってなんとなく優越感に浸るために存在するわけではありません(笑)。
人はつい,自分の価値観に照らして「善いか悪いか」で行動を選択してしまいます。
ですが,それはまさに幸せな人生を歩んでいくためには「効果的ではない」方法なのです。
私は,「効果的か否か」という判断基準を用いるようになってから,家族,友人,同僚,先輩,クライアント等,誰と話しているかに関わらず,何か人の行動について「善いか悪いか」というような話題になった時には,「効果的である」,「効果的でない」という言葉を使うようにしています。
「その人のしていることはあまり効果的ではないね。」
とか,
「めちゃめちゃ効果的だね~」
などという感じです。
普段からそういう何気ない会話で使う言葉から変えていくことで,習慣として身に着いてきますよね!
「善いか悪いか」ではなく,「効果的かどうか」
ぜひ,考えてみてください(^^)